もどりかたのさまざまアウトサイダーという言い方がでてくる。 辛い経験をした人が、10.で説明した「変革体験」を経て、 他人とは違う価値感、考え方になった時、その人をそう呼ぶらしい。 この本を読んでいる人は、何らかの意味で辛い経験をしているのだと思うが、 この部分を読んだとき、 多くの人が「自分は果たしてアウトサイダーだろうか」と考えてしまうのではないだろうか。 辛い経験さえすれば、すぐにアウトサイダーになれるわけでは無い気がする。 しかし、アウトサイダーにならなければ、辛い経験をする意味は無いのだ。 筆者はこのアウトサイダーにある種の分類を試み、 いろいろな文献からその分類を応用し、検討する。 まず、全体を行動的で陽気なアウトサイダーと陰性なアウトサイダーに分け、 陰性な方をさらに社会化の観点から分類する。 その後、宗教との関連を詳しく考え、 正攻法の態度を取る場合と消極的な姿勢を取る場合に分け、 そのような観点から宗教のあるべき姿も触れている。 のこされた問題ここで議論されているのは、かなり深遠な問題だ。 というのは、不幸とは何か、人生の苦しみとは何かという事が関連しているからだ。 作者は、どんな人でも、共通している「底知れぬむなしさ」があるという。 そして、不幸か幸福かは、それと常に対決しなければいけないか、毎日の雑事にごまかせるか、 だけの違いだと主張する。 ハンセン氏病におかされた人達は、毎日、虚無と絶望と向き合わなければいけないが、 ハンセン氏病に冒されていない人達は、浅く紛らすだけで、 虚無と絶望が決してないわけではないというわけだ。 したがって私たちはどんな境遇にあっても、どんな状態にあっても、 この虚無と絶望を克服する方法を求めなければならない。 そして著者はその例として、 病気のために普通の精神機能がはたらかない人の問題を挙げている。 そういう生きがいを求めることも感じる力も無い人に生きる意味はあるのかという問題だ。 しかし、自分が生きる意味は自分の中では無く、 他者の中にあるというこの本の主張が分っていれば、 そもそもこのような人達と私たちに違いが無いことが分るということだ。 つまり、このような人達の問題は人間皆の問題なのだ。 |