3. 生きがいを求める心


この章では、「生きがいの欲求論」というものを考えます。 「欲求論」というのは、私もよく分からなかったのですが、 昔から良く研究されているもののようです。 人間には様々な欲求があるのですが、その中で生きがいに関係するものを順に考えていきます。

生存充実感への欲求

これは、喜び、勇気、希望、などの「生命を前進させるもの」に対する欲求です。

2章の使命感の所でも書きましたが、 何か絶望的なことがあって、それまでの生きがいを失い、 新たに生きがいを探さないといけないとき、 普通は、自然に見つかることがありませんから、 無理してでも自分で見つけなければなりません。 そのとき、生きがいになりうる条件というのはとても大事なのです。 その条件を満たさないものを、間違って生きがいに選んでしまったとき、 それは、すぐに失います。 だから、無理に探すと言っても条件に合うものでないと意味がありません。

その条件として、大事なのが「生命を前進させる」ことなのです。 だから、この条件を満たさないもの、恐れや不安や恨みなどの、 「生の流れを滞らせるもの」は、決して生きがいにはなり得ません。 生きがいをなくした時は必死になって新しい生きがいを探そうとしますが、 その場限りの快楽のようなこの条件を満たさないものを選ぶと、 結局苦しさは、なくなりません。

「生命を前進させるもの」とは何か、説明が難しいですが、 表面上の浅い、快楽とでも呼ぶのに相応しいものは、除外されるようです。 もっと、深いもの、生きている根底に関わるもののようです。

変化への欲求

未来性への欲求

欲求論というのは、どういうものが生きがいになるのか、その条件と思っても良いようです。 その中で最も大事な条件が、この未来への欲求です。 生存充実感への欲求のところで、「その場限り」の快楽は、生きがいにはならないと書きましたが、 まさにそれは、未来への欲求が満たされないからです。 その生きがいが、未来に開けていること、新しい発展とか、前途に希望がなければ、 生きがいになり得ません。

反響への欲求

生きがいの条件としてもうひとつ大事なのは、「はりあい」等と表現されるもので、 ここでは特に他人からの情緒的な反応を議論しています。 感謝されたり、喜ばれたり、そういうたぐいのことです。 確かに他人と心を通わせたと思える瞬間は、それ以上にないと思えるほどうれしいです。

この欲求を満たすことは、生きがいの条件としてはとても重要なことで、 他人と切り離された自分一人しか関係しないことは、生きがいになりえません。 「2. 生きがいを感じる心」で挙げた岡潔の例は、何もないときは良いのですが、 いざ、大きな苦しみに会ったときは、生きがいとしての資格を失ってしまいます。 他人のためになるという実感が生きがいには、とても大事なのです。

ただ、「反響」を誤解してはならないのは、いわゆる「見返り」とは違うということです。 自分が他人に必要とされていると自分が感じることが大事で、 実際に他人に感謝されようがされまいが、関係ありません。 したがって、自分が役に立った他人、その人が自分の存在に気づかなくても、 それは充分生きがいになりうるのです。

自由への欲求

ここは、粘菌の例まで出す著者の知識の広さに驚きました。

自己実現への欲求

意味と価値への欲求

ここで言う意味と価値は、「自分が生きていること」に対するものです。 つまり、生きていることに意味や価値を求める欲求のことです。 生きがいの条件としては、「反響への欲求」と同じくらい大事です。 いや、人からの反響なんかなくても、意味さえあれば良い、という人もいるかも知れません。

もっとも、生きていくのが楽しいときは、それほどこの欲求は強くありません。 楽しければ、意味なんかどうでも良いですからね。 しかし、いったん何かあり、不幸のどん底に落ち込んだとき、生きていく意味や価値は、 とても問題になります。 本文には人による違いが説明してあります。



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