この章では、生きがいをなくした状態の特徴を出来るだけ客観的に書いています。 実際になくした人がこの章を読むと、自分自身が相対化され、 それだけで、気持ちが楽になると思います。 破局感と足場の喪失「足場の喪失」について書かれています。 抽象的でなく、具体的に「足場」が実感できるのは、やはり、失った時でしょう。 何だか本当に不安的な感じがして、 「人間というものがみな何らかの足場を持って生きている」ことを確信します。価値体系の崩壊ここで言う価値体系は、世界を支える柱であり、また生存目標を指しています。 さらに、私に意見を加えるならば、自信とも関係しています。 つまり、それまで持っていた価値体系が壊れてしまえば、自分に自信が無くなり、 他人に対してはっきりものを言ったり、強い行動にでにくくなります。 価値体系があっての自分だし、自分の価値体系に従って意見をいったり、 行動したりするわけですから、当然でしょう。疎外と孤独生きがいを失った人は、孤独になります。 まわりのすべてのものが遠のき、心に訴えるものがなくなります。 これも、本文から離れますが、最も苦しい時は、どうして誰も助けてくれないんだろうと、 家族や友人を恨みます。 そして自分が今まで築いて来た人間関係がまるで無駄だったような気がするのです。 無意味感と絶望生成発展するものがなくなるほど苦しいことはないでしょう。 自分は生み出すものは何もない、発展することはまったくないと思うことはとても辛いです。 生きていることに意味があるかどうかは、未来とつながっているので、未来はとても重要です。 否定意識否定意識は、生きがいをなくしたすべての人の共通のものだと書かれています。 その中で特に自己を否定するのが、最も深刻です。 自分自身を否定することほど辛いことはありません。 しかし、私は、そこまでいって初めて、何か新しいものが生まれる気がして仕方ありません。 肉体との関係生きがいを失ってどんなに生きたくないと思っていても、肉体は生きるための食物を欲しがります。 つまり、心と体がばらばらになるのです。 これは、ある意味で不思議なことですが、人間も生物である以上、当然のことかも知れません。 また、最も苦しい時にはそのことがとても恨めしいものですが、 これがとても大事な意味を持つということが後で述べられます。 自己との関係生きがいを失うと、自分のことばかり考えるようになります。 もちろん、それは自分の利益を優先するという意味ではなく、 自分の価値とか自分が生きている意味とかを思い悩むということです。 自分は何のために生きているのだろうとか、生きている資格があるのだろうかとか、 自分の欠点ばかりを取り上げて、「深刻な嫌悪の泥沼」に陥ります。 否定意識の所でも書きましたが、この「泥沼」が最も苦しい。 しかしながら、ここで自己をどこまで率直に捕まえることができるかが、 再び生きがいを見つける時の鍵になります。 不安生きがいを失った人は必ず不安が伴うとして、 特に大事なのは、「実存的な不安」と述べています。 さらに、「実存的な不安」を1. 死の不安、2. 無意味さの不安、3. 罪の不安に分類しています。 これらの根源的な不安は、「自己との関係」のところで説明した「泥沼」と同じように、 再び生きがいを見つける鍵になります。 苦しみ生きがいを失うと苦しむのは、当たり前かも知れませんが、 「肉体的な苦痛」と「精神的な苦痛」に分けると、「精神的な苦痛」がより大事です。 酒、麻薬、賭け事、仕事に没頭するなど、逃げているだけでは決して新しい生きがいは、 見つからないので、「苦しみは徹底的に苦しむほかない」ということになります。 悲しみ著者は苦しみよりも悲しみの方がより深刻だと思っています。 悲しみは、死と虚無にむかい、特に自殺と関係が深いと書いています。 しかし、より大事なことは、いったん深い悲しみを経験した人は、そこから抜け出せても、 必ず跡が残るということです。 そこで、前に出てきたパール・バックという作家が再び登場します。 パール・バックの引用は、「悲しみを知る人と知らない人」という言い方で、 悲しみが後の生き方に大きく影響することを表しています。 悲しみを経験した人の喜びは、経験する前とまったく違います。 著者は「裏返し」という表現を使いますが、 悲しみを知っているからこそ感じる喜びがあるのです。 人間の限界というかその欠点を身にしみている人だから、 それでも向上しようという気持ちに打たれるのです。 「いとおしむ心」と呼んでいますが、その深さは悲しみの深さに比例すると書いています。 苦悩の意味以上の苦しみや悲しみは、単に苦しく悲しいだけでなく、 必ず意味があるというのが著者の立場です。 以下にその意味をまとめておきます。
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