認識と思索のよろこびこの項は始めはとばしていたのですが、物理と関係しているので、少し書く事にします。 というのは、死刑になる数日前に経済学の本を読む人の話と、 戦争で動員命令が出される前日に兵営で数学を勉強する人の話が出ているからです。 「無償の学究心」という表現が使われていますが、 ここでは経済学や数学の力について書きたいです。 というのは、最近、学問や研究は産業に役立つかどうかという観点が強調されるのですが、 この例からも分るようにもっと深淵な価値があるからです。 「無償の学究心」の対象になる事、それ以上の価値があるでしょうか。 そして、逆に「無償の学究心」の対象になるような研究をする事が、 私たちの「生きがい」につながるのだと思います。 審美と創造のよろこびここに例として書かれている絵画や音楽や俳句は、 「芸術」等という大げさな言い方でなくても「表現」というので充分だと思います。 「表現」には不思議な力があって、 確かに辛い思いや絶望した人に特に「表現」に対する強い思いが表れます。 どうしても「表現」したい、「表現」せずにはいられないという気持ちが自然に起こります。 なぜ、窮地に落ちた時、「表現」に対する欲求が強くなるのか、この本にも説明はありませんが、 人間が元々持っている自然な欲求なのかも知れません。 この本にそっていえば、生きがいを失った人が精神世界に見つける喜びの一つというわけです。 さらに重要な事は、「表現」する姿勢が真剣であればあるほど、 「表現」される内容が人の心をうつことです。 つまり、それは別の窮地に陥った人の助けになるわけで、 この本の例で言えば、楽団の人々は他の患者を慰める存在になるという事です。 また、俳句を知った死刑囚のようにまわりのものに対する見方が変わる場合もあります。 これは、前の章に出てきた「心の深み」と同じで、新しい視点、新しい考え方が、 一度絶望したことから生まれると思われます。 愛のよろこびここで言う「愛」とは、いわゆる恋愛というものではなく、また、肉親の愛でもありません。 「博愛」と呼ばれているもので、簡単に言えば「他人の役に立ちたい」気持ちでしょうか。 私自身の意見を言えば、この喜びが「生きがい」にとってもっとも重要です。 この本でも、これまで何度か取り上げていて、 3章の「反響への欲求」や7章の「悲しみとの融和」にあった 「ほんの少しでも自分の事から離れる。」というのが、深い関係にあると思います。 さらに「博愛」というものとは少し違った、けれども生きがいになりうる「愛」として、 相互的なものがあります。 つまり、一方的な愛ではなくて、同じ目的にを持って励ましあいながら進んでいく「愛」もあります。 夫婦であっても、肉親であってもそういう関係でなければ、生きがいにはなり得ないと、 著者は強調しています。 宗教的なよろこび代償としての宗教精神的な生きがいとしての宗教3章の「意味と価値への欲求」、6章「無意味感と絶望」で説明されていた 「意味感」が宗教によって与えられると言っています。 「意味感」は、自分がいきている事に意味が持てると実感する事で、 この本でも「生きがい感」と同じ意味に使っているぐらい、生きがいには大事です。 |